12年前(2004年)に亡くなった母が1999年に向島の昔の生活を書いたエッセーがあったので掲載しておく。

(ここから)
我が郷里向島
  一九五四年の春、嫁ぐ日。私は初めて向島の地を踏んだ。問屋口と向島を結ぶ橋は既に架かっていた。その頃の海は澄みきって美しくきらめいていた。夏になると子供達が陸からポーンと飛び込んで賑やかに泳いでいる。家の裏から五〇歩も歩けば海に下りられる。大潮になれば干潟が広がり、マテ貝、アサリ貝、甲羅に目鼻模様のある平家蟹などが沢山いて潮干狩りはとても楽しかった。
 その海も台風が来ると天変だった。嫁いですぐ、二回に渡り高潮に出会う。風もなく、音もなく、ただ「ひたひた」というような感じを体に受けると間もなく、床板を打つ波の音がする。
暫くすると今度は流木が「どすんどすん」と家を壊す。そんな夜が明けて見ると裏の畑に大きな船が目の前にどかんと座っていた。何とも云えない恐怖がじんと追ってくる。「夫に町の方に出ようよ」と何度云ったことか。でも、夫はついに向島を捨てなかった。
 祖母、姑、夫と四人暮らし。その内に息子、娘と二人の子供に恵まれる。田畑三〇アールばかりの兼業農家。稲と麦を植え、畑には甘藷、野菜を作っていた。
 私は現在の北朝鮮で生まれ育ち、農業には無知だった。六月には田植え定規を使い、一歩一歩後ろに下がりながら田に稲を植えていく。腰がばりばりと痛くなる。草取り、農薬散布と辛い作業が続き、やがて、収穫となると鎌で一株づつ刈り取って束ねて行きハデに掛ける。籾が乾燥したら足踏みの稲扱ぎ機械にかけて籾を落とす。

 そんな収穫の忙しい時期、いり納屋にアルバイトに行く。魚見と云って山の上から鰯の大群が現れるのを交代で監視している。鰯の大群が来ると海の彩が変わるので、網元に知らせると何隻もの船が出て鰯を採って帰る。それからが私たちアルバイトの出番となる。納屋は戦場のようにごった返す。四角い竹篭に鰯を移し何段も積み重ねて熱湯に浸け、引き上げられた篭を次々に替わしていく。新鮮な「いりこ」を作るには時間が勝負のようだった。月明かりを頼りに魚を貰って帰ると家の中は真っ暗。皆んな眠っている。疲れがどっと押し寄せて来て情けなかった。明くる日から、砂浜に鰯を千しに行く。筵に広げたり畳んだり二、三日繰り返して「いりこ」が出来上がる。月に何日かのアルバイトだが小遣いが出来てとても嬉しかった。
 山には焚き木を取りに行く。燃料は自分たちの手で山から持って帰る。夫が休日になると山に二人で行く。松や堅木等で薪を作る。割木や小枝を束ねて橇と背負子で運び出す。鉄車輪の台車に乗せて引いて帰る。そんな生活が何年か続いた。
 向島には製塩工場があった。一九一六年操業。塩田が一九六〇年、全面廃止となり、それに伴い製塩工場も姿を消した。今は跡地が防府市の運動公園となっている。
 子供達も巣立ち、夫も昨年黄泉へと旅立った今、向島は我が故郷と胸を張って云えるようになった。独居老人といわれる年令になったが、海岸道路が出来て山の緑と美しい海に恵まれた環境で余生を送れる幸せを噛みしめて「老人の歩く道」と名づけられた海岸通りをを友と二人毎日歩いている。
向島を捨てきれなかった、そんな夫に有り難うと云いたい。
                                   一九九九年