12年前に亡くなった母は北朝鮮で生まれて、終戦で日本に引き揚げてきた。
その経験を書いたエッセーがあったので、先の「我が郷里向島」掲載のついでに掲載しておく。
(ここから)
私の戦争体験
私は北朝鮮元山で生まれ育った。正確に云うと虎島と云うところで生まれたらしい。
十五歳 女学校三年の春、戦局はいよいよ厳しくなっていった。男の先生が次々と応召されて出て行かれる。私の通っていた女学校は小高い山に添って三階建ての赤煉荒造りで瀟洒な建物だった。
友達と連れだって学校に着くと今日は苗補の作業と云われる。作業場まで三キロあまりの道程を団体で歩いていくと圃場はすでに出来ている。十五厘位いの小さな苗木を平板で間隔を取りながら植え付けていく。時々お昼に馬鈴薯の蒸し薯をご馳走になることもあった。戦争の勝利を信じ野外の作業をつらいとも思わなかった。
そのうち奉仕作業に行く場所が拡大され、人手の足りない缶詰工場に行くことになった。美しい松原と遠浅の砂浜の海水浴場、松涛園には昨年まで泳ぎにきていた。別荘の広がる素晴らしい景勝地を通り抜けて橋を渡ると、そこに缶詰工場はあった。
或る日の昼休み「牛が殺されているよ」と友達の声がする。見に行こうと、二、三人の活発な乙女達は駆け出していった。「嫌だなぁ。そんなの見たくない。」と思っている。牛の悲しそうな声が「モー」と一声聞こえてくる。大きな台の上にごろごろと肉の固まりが移されて、適当な大きさに切り分ける人と、缶に詰めてコンベアーに乗せる人と流れ作業が続く。タレが入れられ機械で蓋がされる。並べて積み上げ、蒸気室に入れられる。中味は主に鰯、鯖、秋刀魚、と魚が主体だった。夏休みもなく生産に追われる日々が続いていた。
八月十五目天皇の敗戦詔勅を官舎の人達とラジヲで聴く。「ああ戦争が終わった。」なぜか、戦に負けたのだと云う実感は未だ湧いてこなかった。
「ソ連兵が上陸して来たよ。」と云う人の声で、走って前の道路に出てみると、海岸通りをやってきた兵隊達は体も大きく厳しい感じだった。ズシンズシンと大地を響かせて進んで来る。
一連隊五十人あまりが目の前を通り過ぎて行った。後から聞いた話だが初めに上陸した部隊は皆囚人だったと云うことだ。略奪した腕時計を何本も腕に付けていたが、時計の読み方もわからない兵隊が大勢いるということだった。
私の父は陸軍要塞司令部に勤める軍属だったので、私は陸軍官舎に住んでいた。父母と次兄、妹二人、長男は召集されて軍隊に入っていたので六人家族たった。官舎のある一画は外部の人が入れないように鉄条網が張られていた。南東には軍の倉庫が幾棟も建ち並び食料、弾薬、衣服などがぎっしり詰め込まれ保管されていたらしい。
ある日、朝から「わんわん」と蜂の巣をつついたような大衆の喚き声が聞こえてくる。倉庫を打ち壊し、略奪する暴徒の喚き声だった。そんな日が三、四日続いた。ソ連兵に追われた朝鮮人が捨ててそのまま逃げ去った紙に包んだ物を妹が捨って来ると、中にはザラメの砂糖、靴の鋲などいろいろの物が混ざっていた。ソ連兵に銃で械嚇されて慌てて逃げてきたらしい。私たちも貴重品を何処に隠そうかと家の中を右往左往している。母は銀行に走り、現金と小切手で全財産を引き出して来る。家を建てる為にこつこつ蓄えていたということだった。此の小切手は日本に帰って何年か後、換金することは出来たが、紙屑同然の金額で暮らしの役にはたたなかった。
暴動も収まった八月の終り、蒸し暑い夜だった。裏の縁を網戸にして寝ていたら、倉庫を監視して廻るソ連兵が柵を乗り越えてやって来たらしく、網戸を そーっ と開けて剣銃の先でカーテンを寄せて中の様子を伺っている。父が大声で「こらっ!」と怒鴫った。ソ連兵は黙ってそっと立ち退いて行った。父がいて良かった。私達は安心して眠りにつくことが出来た。
それからすぐ後、日本兵は捕虜としてソ連に連行され長い間抑留されて何万人もの人が亡くなったのである。
私達も日本に引き揚げの準備をしていた。港には早々と家財道具を運び込む人が沢山いた。船が目本に向かって出ると云う噂を聞いた人達が、我れ先に荷物を運び込んだと云うことだ。風雨に栖されて山積の荷が沢山あったらしい。
そんな或る日、父が日本人の貯金通帳を拾い警察署に届けた。そこには日本の警察に変わり朝鮮人の保安隊が出来ていた。父は保安隊で非ぬ疑いをかけられて、一晩留置された。私達家族は帰らぬ父を心配して一夜、まんじりとも出来なかった。明くる日、帰ってきた父の顔にはあざが幾つもあった。
私の住んでいた官舎は海岸通りに通じる前の道路に向かって、前から一戸建、二戸建と並び一番奥が七戸建の長屋となっていた。長屋の右から二家目が私達の家だった。ソ連兵が冊を乗り越えて時々遊びに来るようになったので、隣のおじさんと父が相談して押し入れから隣家と行き来出来るように壁を破って隠れ通路をつくった。ソ連兵はやって来ると家の中にどんどん上がり込んで来る。どんな人が住んで居るか様子をさぐる為だろう。子供達に飴を呉れたりする。そんな時でも銃の先剣を付けて横に必ず置いている。向こうも恐ろしいのだろう。
隣家のおじさんは同じ司令部の船長さんだった。幼い子供が二人いた。ソ連兵が来たと云って、奥さんと子供を置き去りにして隠れ穴から私の家に移って来た。若い男性は皆ソ連に連れて行かれるという噂があったので恐かったのだろう。父は自分だけが逃げて来てといって喧しく小言を云っていた。でも、此の頃は若い女性の方が危険だった。
終戦から少しずつ回りが落ち着いた頃、食料が乏しくなった。父の知人の朝鮮人がお米を取りに来るようにと云って呉れる。出来るだけ目立たないように子供が良いと云うことで上の妹が乳母車を押して貰いに行く。日本人は皆、食糧難で大変な時代だった。店はほとんど営業していない。父は元山よりもまだ北に田圃を所有していて朝鮮人の小作人に預けてあった。秋になるとお米が俵で送られて来たり、朝鮮人のおばあさんが靴下の中にお金を隠して持ってくるのを見たことがある。其の小作人が来て箪笥、食器棚など家財道具を車に乗せて持ち帰る。帰る時しきりに下の九歳の妹を「息子の嫁にするから置いて帰ったら。」と父に云っている。
「娘がいたら又、朝鮮に帰って来れるでしょう。」とも云う。今では北朝鮮は二度と踏める地ではなくなった。
終戦からIケ月も過ぎただろうか、北朝鮮では一番良い季節になっていた。前の大きな家にロシア人の三、四歳位の可愛い女の児が出入りしている。フランス人形のような愛らしい子供だった。私達が手招きすると寄ってくるようになった。時々連れ出してブランコに乗せたりして遊ばせていた。其の内、ロシアの女の人が手真似で語りかけて来た。私たちも人形やコーヒーカップを持って訪ねる。どうも何処か空き家はないかと云っているようだ。母に話して連れてくる。即座に話が決まった。それがマァシャーとの初対面だった。白系ロシア入、金髪、青い眼で顔立ちの整ったスタイルの良い美しい人だった。女の将校さんでもある。荷物は軍服と外套。身の回りの物はほとんどない状態だった。私たちはオンドルの間をマァシャーに明け渡し、あとの一間で身を寄せ合って暮らすことになった。マァシャーには私が丁度良い小間使いだ。美しい布で部屋の周りを張り巡らして寝台を持ち込む。
その内、市場に出かけては色々な物を買ってくるようになった。日本人は皆、売り食いで生活をしていたので、市場には食料から衣類、食器、道具、毛皮、宝石など何でも揃っていた。
時々私も一緒に市場ヘジープで乗り付けることがあった。そんな時、人々の好奇の目で見られるのは恥ずかしくて嫌だった。市場で商いをしているのは皆、朝鮮の人たちだ。地面に食品も並べて売っている。マァシャーが買ってきた卵には、時々、ヒョコになる寸前の卵が混ざっていたりする。そんなとき、「パパーピョピョ」と云って父に買って来てくれるように云う。
マァシャーは軍の食堂で食事をとっていたが、いつの間にか家で作って食べるようになった。
お米一二〇キロ、豚肉五〇キロが大きな木箱に入ったのを持って来る。皆で食べるように云ってくれる。マァシャーはお米は時々スープに入れるくらいで、主食は黒パンと白パンだった。北朝鮮はもう寒くなっていたので倉庫に置いておけば冷凍したのと同じ状態になり肉が腐敗する心配はない。父母が餅を搗いて薄く切り、油で揚げて食べさせると「美味しい」と云って喜ぶ。時々あれを作ってとせがむ。肉と油の料理で台所廻りは油でずるずるし、黒光りして来た。
マァシャーに恋人が出来て時々来るようになった。毛むくじやらの大男でミィシャーと云う。母が着物を出して洋服に向きそうなのを何枚かマァシャーにあげる。
ソ連は日本が戦争に負ける一週間くらい前に参戦してきて、満州国(現、中華人民共和国東北郎)を爆撃してきた。満州に住んでいた大勢の日本人たちは自決したり、命からがら南下して逃げ延びた。逃げ延びて来た人が元山に滞在していた。その中に洋裁の経験がある若い婦人がいた。洋装店で働きながら家族を養っていると云う。マァシャーはそこに生地を持って行き洋服を仕立ててもらう。次々と衣装が増えて整頓が出来ない。何処に何かあるのか分からなくなると、「エッチャー、エッチャー」と私を呼んで大騒ぎ。私が整理係で、何時でもすぐ出せるように覚えていた。時には妹のようにかわいがってくれ、ロシア映画とか、舞踏団が来ると連れていってくれる。ロシア料理の作り方もいろいろと教えてくれた。
今日はマァシャーの勤めているビルに一緒に行こうと云う。事務所には四、五人の男性がいた。小学校の算数の時間に習った時のような大きなソロバンが目に入る。地図が貼ってあり、地図を指して「読め」と云う。日本地図で「モスクワ、ウラジオストック」と私が答えると満足そうに同じ読み方だと云うように相槌を打って笑う。
ミィシャーは前の家に住んでいた。此の家は司令部の機関長さんのお宅。ある日マァシャーがプリプリ怒って帰ってくる。何か何だかさっぱり分からない。私はカタコトのロシア語と手振りで大体の話は通じ合っていた。しかし、今日ばかりは原因がさっぱり分からない。落ち着くのを待って良く聞いてみると、母の着物のことらしい。お米を貰ったお礼に上げたのだが、どうも機関長の奥さんの嫉妬で中傷があったらしい。やっと、納得してくれたがスタラー(年寄り)は舌が長い嘘つきだと云った。日本と同じ諺があることを知る。
マァシャーがウラジオストックに行くと云って二、三日家を留守にした。私に「おみやげ」といって美しいグリーンのハイヒールを差し出す。「有り難う」と穿いてみるが、靴が小さ過ぎて穿けなかった。そんな時でも絶対に妹に上げるとは云わない。国民性の違いが良く分かる。
いつの間にか何処の家にもロシア人が同居していた。
父と次兄はロシアの製油工場に働きに行っていた。私もロシアの製縫工場で働きたいと思ったが、小柄な私は子供に見られて断られてしまった。
ロシアにも色々の人種がいて髪は黒く色白の人、茶髪で白人、背の高い人、低い人、黄色人と様々だが、みんな陽気で歌を唄い、ウォッカを呑み、林檎酒を呑んで、賑やかだった。ウォッカはアルコール分を沢山含んでいて火を付けるとボーッと燃え上がる。兄はこれを口にして、「これは凄い。口に火が付くようだ。」と云う。林檎酒は飲み口が良く、ロシア人のパーティーに誘われて、つい呑み過ぎて足許が狂いふらふらした事があった。
冬が過ぎ、マァシャーが私の上級生だった人の家の二階に引っ越すことになった。二間あってミィシャーと同棲する事になった。私も引っ越しの手伝いをした。手を滑らせて林檎の型をした陶器の蓋を割ってしまった。ミィシャーが大事にしていた物らしい。その日はミィシャーは不在だった。「ごめんなさい」がミィシャーに云えない。マァシャーは頬をふくらませて見せる。ミィシャーが怒ると云う。私は恐くなり、それきり行く事はなかった。
マァシャーの後にはタァニャーと云う女の人が移ってきた。この人は物静な優しい感じの人だった。子供がいると云って写真を見せてくれる。金髪の可愛い少女だった。
日本人世話会が結成されて,、いよいよ日本に引き揚げる日も近くなった。六月になって昼から駅前に集合することになった。前もって帯芯で一人づつのリュツクサックを母が作っていた。
各々が自分の着替えと食料を入れてかるう。鍋、釜も持たなくてはいけない。父は鰯の缶詰の楕円形を利用して水筒を幾つも作る。表面を二重に合わせて其の中に朝鮮紙幣の千円札を入れ半田鏝で付け合せる。比のお金は引き揚げてから、朝鮮人の帰国する人と仙崎で交換することが出来た。タァニャーは餞別に食パン二本を持って来てくれた。朝からばたばたと忙しく準備をしていた。ふと見るとマァシャーが戸口に立ってこちらを見ている。何となく寂しそうな顔だった、気付いたのに私は知らぬ顔をしてしまった。どうして素直に「永い間ありがとう」と云えなかったのだろう。今でも憶い出すと、悪いことをしたなと思う。幼な過ぎた自分が恥ずかしい。
昼から元山駅前に行き、各町内会別に並んで汽車に乗るのを待つ。集まった人は二百人以上の人だった。父母と兄、妹達がいるのに夕暮れが迫り始めると心細く、じわじわと不安と寂しさが胸を締め付けて悲しかった。これが生まれ故郷の見納めとなった。
五十歳前の父は団体世話役に、十八歳の兄もいっしょに警護にあたることになる。やがて貨物車に乗せられる。座るだけで身動きは出来ない。荷物のように押し込まれてしまった。ガタンと大きく揺れて汽車が止まる、父達責任者が降りてゆく、燃料代を出せとか次は女を出せとか難問が次々と出て来る。其の都度、皆からお金を集めては何とか進んで行った。
次の日は汽車を下りて皆ぞろぞろと歩かなければならない。京城に向かって連むのだ。前の連休が上まった。持ち物検査をすると云う。朝鮮人の保安隊が見て歩く。景色の入った写真や軍人の写った写真は皆、捨てるようにと指示がある。貴重品を取られる人もあったらしい。次は無蓋車に乗せられる。中央に荷物を積み上げて、ぐるっと人が回りに座る。汽車がカーブを曲がった時、荷物がごろごろと落ちた。あっと云う声、もう取りに戻ることも出来ない。たった一つの荷物をなくしてしまった人もいた。とうとう三十八度線を越える所まで来た。夜になるのを持って歩くことになる。急に真暗がりになり、雨がざあざあと降って来た。下の妹を中にして私と母が手をつないで引っ張って歩く。妹はリュックを背負って、なかば眠りながら歩いている。前の人に着いて歩くのが精一杯だった。暗くて何も見えないが、波の音が聞こえてくる。一方は山、一方は断崖絶壁になっているようだ。そんな暗がりを歩いていると遠くから「お父さん。お父さん。」と泣き叫ぶ声がする。命燃え尽きて日本を見ることもなく、亡くなったらしい。穴を掘って埋めることも出来ない。団体に遅れたら生きて帰ることは出来ないだろう。皆、必死でただ黙々と歩いて行く。ずぶ濡れになって夜明けも近い頃、朝鮮人の家にたどり着いて雨宿りすることが出来た。タオルで拭く間も惜しく皆へたへたと倒れこむように眠ってしまった。朝、外に出て見ると夕べ干したはずの手拭いはみな盗まれていた。今日は良い天気だ。皆んな三十八度線を無事越えた安堵感でいくらか元気が出て足どりも軽く歩いて行く。又、山道にさしかかる。
父の弟の家族も同じ元山に住んでいた。叔父さんは、現地召集で軍隊に入り母親と子供が七人いた。一番小さい子はまだ三歳だった。父には弟の家族を日本に無事連れて帰る責任があった。
牛に引かせた荷物や「チギ」と云う背負子を持って朝鮮人が、駄賃稼ぎにやって来た。荷車に子供と荷物を乗せる。父が「ちょっと待て」と云ってチギの荷物の上に幼児を一人づつ乗せた。朝鮮語の分かる父は後で「荷物を持ち逃げする相談をしていた。」と云った。どの位歩いたのだろうか、とうとう米軍の援助で建てられたテント避難民収容所までたどり着くことができた。
朝鮮では大勢の人が発疹チフスで亡くなった。蚤から媒介をされる。全員検便とDDTの洗礼を受ける。収容所では食事も配給されて、もう食べることの心配はなくなった。
施設には先に着いた人達が船に乗る順番をまだ大勢待っていた。一週間か十日か、記憶は定かではないが、やっと船に乗ることが出来た。小さな船で又、ぎゅうぎゅう詰めで釜山に着いた。
釜山に上陸して又、待機。三、四日待たされる。やっと日本に帰る引き揚船に乗ることが出来た。船では久しぶりに美味しい食事が出る。甲板に上がって見ると気持ち良い風が吹いている。子供を一人連れた若い婦人が早稲田の校歌を唄っている。廻りの者もそれに合わせていつしか合唱していた。船の中で演芸会が催される。股旅道中の踊りや歌が次々と披露される。賑やかで楽しい一時だった。生と死を乗り越えてきた人々の力強さが溢れていた。
日本に向かって連んでいた船が急に止まった。船の中が一時騒然となる。その頃は日本の海域には魚雷や爆弾が沢山投下されていた。誓くして浅瀬に乗り上げ、船の底が破損したと云うことが知らされた。船の底は二重構造になっているのでこのまま航海すると云うことで安心した。
「九州が見えて来た。」と云う人の声で甲板に上がる。「アア。日本にやっと帰りついた。」と恩ったら又、検便が有り三、四日船は止まったままだった。擬似コレラの疑いがあるので上陸は出来ないと云う。船は浦賀に回されることになった。浦賀でも収容所に入れられ、すぐには自由の身にはなれない。
やっと開放される日が来た。お金は一人千円づつしか交換して貰えなかった。汽車に乗り一中夜かかって防府駅に降り立ったときはもう夏だった。
父の弟の家族も全員無事に帰ることは出来たが、一年の内に叔母と従姉妹が栄養失調で亡くなった。幸い叔父と長兄は先に目本に帰っていた。誓く母の里にお世話になるが、日本も食料が無く、買出しに明け暮れる毎日だった。茄子一つでも農家を廻って、やっと分けてもらうことが出来た。
二人の妹は二学期から一学年下って小学校三年と六年生に転入した。私は女学校に転入することを諦め、技術を身に付けたいと思い洋裁学校に通うことにした。
何年かは、春が来ると栄養失調で体がだるく、頭がぼうっとした事を今も億い出す。
一九九九年二月
あとがき
子供と孫達に私の体験を知って貰いたくて、惚けないうちに書いておくことにしました。私も六十八歳。何にしろ五十三年前の記憶です。辛い思い出は思い出すのも嫌でした。今まではあまり人に話したこともありません。
人間は素晴らしい回復力を待った生物です。あなた達も困難や苦しいことに出会った時、苦難を乗り越え生きて来たおばあちゃんの事を思い出してください。きっと勇気が出るでしょう。
四人の孫達が明るく優しく頼もしい大人になってくれることを願っています。天国のおじいちゃんも、きっと同じ思いだと思います。
おばあちゃんより
その経験を書いたエッセーがあったので、先の「我が郷里向島」掲載のついでに掲載しておく。
(ここから)
私の戦争体験
私は北朝鮮元山で生まれ育った。正確に云うと虎島と云うところで生まれたらしい。
十五歳 女学校三年の春、戦局はいよいよ厳しくなっていった。男の先生が次々と応召されて出て行かれる。私の通っていた女学校は小高い山に添って三階建ての赤煉荒造りで瀟洒な建物だった。
友達と連れだって学校に着くと今日は苗補の作業と云われる。作業場まで三キロあまりの道程を団体で歩いていくと圃場はすでに出来ている。十五厘位いの小さな苗木を平板で間隔を取りながら植え付けていく。時々お昼に馬鈴薯の蒸し薯をご馳走になることもあった。戦争の勝利を信じ野外の作業をつらいとも思わなかった。
そのうち奉仕作業に行く場所が拡大され、人手の足りない缶詰工場に行くことになった。美しい松原と遠浅の砂浜の海水浴場、松涛園には昨年まで泳ぎにきていた。別荘の広がる素晴らしい景勝地を通り抜けて橋を渡ると、そこに缶詰工場はあった。
或る日の昼休み「牛が殺されているよ」と友達の声がする。見に行こうと、二、三人の活発な乙女達は駆け出していった。「嫌だなぁ。そんなの見たくない。」と思っている。牛の悲しそうな声が「モー」と一声聞こえてくる。大きな台の上にごろごろと肉の固まりが移されて、適当な大きさに切り分ける人と、缶に詰めてコンベアーに乗せる人と流れ作業が続く。タレが入れられ機械で蓋がされる。並べて積み上げ、蒸気室に入れられる。中味は主に鰯、鯖、秋刀魚、と魚が主体だった。夏休みもなく生産に追われる日々が続いていた。
八月十五目天皇の敗戦詔勅を官舎の人達とラジヲで聴く。「ああ戦争が終わった。」なぜか、戦に負けたのだと云う実感は未だ湧いてこなかった。
「ソ連兵が上陸して来たよ。」と云う人の声で、走って前の道路に出てみると、海岸通りをやってきた兵隊達は体も大きく厳しい感じだった。ズシンズシンと大地を響かせて進んで来る。
一連隊五十人あまりが目の前を通り過ぎて行った。後から聞いた話だが初めに上陸した部隊は皆囚人だったと云うことだ。略奪した腕時計を何本も腕に付けていたが、時計の読み方もわからない兵隊が大勢いるということだった。
私の父は陸軍要塞司令部に勤める軍属だったので、私は陸軍官舎に住んでいた。父母と次兄、妹二人、長男は召集されて軍隊に入っていたので六人家族たった。官舎のある一画は外部の人が入れないように鉄条網が張られていた。南東には軍の倉庫が幾棟も建ち並び食料、弾薬、衣服などがぎっしり詰め込まれ保管されていたらしい。
ある日、朝から「わんわん」と蜂の巣をつついたような大衆の喚き声が聞こえてくる。倉庫を打ち壊し、略奪する暴徒の喚き声だった。そんな日が三、四日続いた。ソ連兵に追われた朝鮮人が捨ててそのまま逃げ去った紙に包んだ物を妹が捨って来ると、中にはザラメの砂糖、靴の鋲などいろいろの物が混ざっていた。ソ連兵に銃で械嚇されて慌てて逃げてきたらしい。私たちも貴重品を何処に隠そうかと家の中を右往左往している。母は銀行に走り、現金と小切手で全財産を引き出して来る。家を建てる為にこつこつ蓄えていたということだった。此の小切手は日本に帰って何年か後、換金することは出来たが、紙屑同然の金額で暮らしの役にはたたなかった。
暴動も収まった八月の終り、蒸し暑い夜だった。裏の縁を網戸にして寝ていたら、倉庫を監視して廻るソ連兵が柵を乗り越えてやって来たらしく、網戸を そーっ と開けて剣銃の先でカーテンを寄せて中の様子を伺っている。父が大声で「こらっ!」と怒鴫った。ソ連兵は黙ってそっと立ち退いて行った。父がいて良かった。私達は安心して眠りにつくことが出来た。
それからすぐ後、日本兵は捕虜としてソ連に連行され長い間抑留されて何万人もの人が亡くなったのである。
私達も日本に引き揚げの準備をしていた。港には早々と家財道具を運び込む人が沢山いた。船が目本に向かって出ると云う噂を聞いた人達が、我れ先に荷物を運び込んだと云うことだ。風雨に栖されて山積の荷が沢山あったらしい。
そんな或る日、父が日本人の貯金通帳を拾い警察署に届けた。そこには日本の警察に変わり朝鮮人の保安隊が出来ていた。父は保安隊で非ぬ疑いをかけられて、一晩留置された。私達家族は帰らぬ父を心配して一夜、まんじりとも出来なかった。明くる日、帰ってきた父の顔にはあざが幾つもあった。
私の住んでいた官舎は海岸通りに通じる前の道路に向かって、前から一戸建、二戸建と並び一番奥が七戸建の長屋となっていた。長屋の右から二家目が私達の家だった。ソ連兵が冊を乗り越えて時々遊びに来るようになったので、隣のおじさんと父が相談して押し入れから隣家と行き来出来るように壁を破って隠れ通路をつくった。ソ連兵はやって来ると家の中にどんどん上がり込んで来る。どんな人が住んで居るか様子をさぐる為だろう。子供達に飴を呉れたりする。そんな時でも銃の先剣を付けて横に必ず置いている。向こうも恐ろしいのだろう。
隣家のおじさんは同じ司令部の船長さんだった。幼い子供が二人いた。ソ連兵が来たと云って、奥さんと子供を置き去りにして隠れ穴から私の家に移って来た。若い男性は皆ソ連に連れて行かれるという噂があったので恐かったのだろう。父は自分だけが逃げて来てといって喧しく小言を云っていた。でも、此の頃は若い女性の方が危険だった。
終戦から少しずつ回りが落ち着いた頃、食料が乏しくなった。父の知人の朝鮮人がお米を取りに来るようにと云って呉れる。出来るだけ目立たないように子供が良いと云うことで上の妹が乳母車を押して貰いに行く。日本人は皆、食糧難で大変な時代だった。店はほとんど営業していない。父は元山よりもまだ北に田圃を所有していて朝鮮人の小作人に預けてあった。秋になるとお米が俵で送られて来たり、朝鮮人のおばあさんが靴下の中にお金を隠して持ってくるのを見たことがある。其の小作人が来て箪笥、食器棚など家財道具を車に乗せて持ち帰る。帰る時しきりに下の九歳の妹を「息子の嫁にするから置いて帰ったら。」と父に云っている。
「娘がいたら又、朝鮮に帰って来れるでしょう。」とも云う。今では北朝鮮は二度と踏める地ではなくなった。
終戦からIケ月も過ぎただろうか、北朝鮮では一番良い季節になっていた。前の大きな家にロシア人の三、四歳位の可愛い女の児が出入りしている。フランス人形のような愛らしい子供だった。私達が手招きすると寄ってくるようになった。時々連れ出してブランコに乗せたりして遊ばせていた。其の内、ロシアの女の人が手真似で語りかけて来た。私たちも人形やコーヒーカップを持って訪ねる。どうも何処か空き家はないかと云っているようだ。母に話して連れてくる。即座に話が決まった。それがマァシャーとの初対面だった。白系ロシア入、金髪、青い眼で顔立ちの整ったスタイルの良い美しい人だった。女の将校さんでもある。荷物は軍服と外套。身の回りの物はほとんどない状態だった。私たちはオンドルの間をマァシャーに明け渡し、あとの一間で身を寄せ合って暮らすことになった。マァシャーには私が丁度良い小間使いだ。美しい布で部屋の周りを張り巡らして寝台を持ち込む。
その内、市場に出かけては色々な物を買ってくるようになった。日本人は皆、売り食いで生活をしていたので、市場には食料から衣類、食器、道具、毛皮、宝石など何でも揃っていた。
時々私も一緒に市場ヘジープで乗り付けることがあった。そんな時、人々の好奇の目で見られるのは恥ずかしくて嫌だった。市場で商いをしているのは皆、朝鮮の人たちだ。地面に食品も並べて売っている。マァシャーが買ってきた卵には、時々、ヒョコになる寸前の卵が混ざっていたりする。そんなとき、「パパーピョピョ」と云って父に買って来てくれるように云う。
マァシャーは軍の食堂で食事をとっていたが、いつの間にか家で作って食べるようになった。
お米一二〇キロ、豚肉五〇キロが大きな木箱に入ったのを持って来る。皆で食べるように云ってくれる。マァシャーはお米は時々スープに入れるくらいで、主食は黒パンと白パンだった。北朝鮮はもう寒くなっていたので倉庫に置いておけば冷凍したのと同じ状態になり肉が腐敗する心配はない。父母が餅を搗いて薄く切り、油で揚げて食べさせると「美味しい」と云って喜ぶ。時々あれを作ってとせがむ。肉と油の料理で台所廻りは油でずるずるし、黒光りして来た。
マァシャーに恋人が出来て時々来るようになった。毛むくじやらの大男でミィシャーと云う。母が着物を出して洋服に向きそうなのを何枚かマァシャーにあげる。
ソ連は日本が戦争に負ける一週間くらい前に参戦してきて、満州国(現、中華人民共和国東北郎)を爆撃してきた。満州に住んでいた大勢の日本人たちは自決したり、命からがら南下して逃げ延びた。逃げ延びて来た人が元山に滞在していた。その中に洋裁の経験がある若い婦人がいた。洋装店で働きながら家族を養っていると云う。マァシャーはそこに生地を持って行き洋服を仕立ててもらう。次々と衣装が増えて整頓が出来ない。何処に何かあるのか分からなくなると、「エッチャー、エッチャー」と私を呼んで大騒ぎ。私が整理係で、何時でもすぐ出せるように覚えていた。時には妹のようにかわいがってくれ、ロシア映画とか、舞踏団が来ると連れていってくれる。ロシア料理の作り方もいろいろと教えてくれた。
今日はマァシャーの勤めているビルに一緒に行こうと云う。事務所には四、五人の男性がいた。小学校の算数の時間に習った時のような大きなソロバンが目に入る。地図が貼ってあり、地図を指して「読め」と云う。日本地図で「モスクワ、ウラジオストック」と私が答えると満足そうに同じ読み方だと云うように相槌を打って笑う。
ミィシャーは前の家に住んでいた。此の家は司令部の機関長さんのお宅。ある日マァシャーがプリプリ怒って帰ってくる。何か何だかさっぱり分からない。私はカタコトのロシア語と手振りで大体の話は通じ合っていた。しかし、今日ばかりは原因がさっぱり分からない。落ち着くのを待って良く聞いてみると、母の着物のことらしい。お米を貰ったお礼に上げたのだが、どうも機関長の奥さんの嫉妬で中傷があったらしい。やっと、納得してくれたがスタラー(年寄り)は舌が長い嘘つきだと云った。日本と同じ諺があることを知る。
マァシャーがウラジオストックに行くと云って二、三日家を留守にした。私に「おみやげ」といって美しいグリーンのハイヒールを差し出す。「有り難う」と穿いてみるが、靴が小さ過ぎて穿けなかった。そんな時でも絶対に妹に上げるとは云わない。国民性の違いが良く分かる。
いつの間にか何処の家にもロシア人が同居していた。
父と次兄はロシアの製油工場に働きに行っていた。私もロシアの製縫工場で働きたいと思ったが、小柄な私は子供に見られて断られてしまった。
ロシアにも色々の人種がいて髪は黒く色白の人、茶髪で白人、背の高い人、低い人、黄色人と様々だが、みんな陽気で歌を唄い、ウォッカを呑み、林檎酒を呑んで、賑やかだった。ウォッカはアルコール分を沢山含んでいて火を付けるとボーッと燃え上がる。兄はこれを口にして、「これは凄い。口に火が付くようだ。」と云う。林檎酒は飲み口が良く、ロシア人のパーティーに誘われて、つい呑み過ぎて足許が狂いふらふらした事があった。
冬が過ぎ、マァシャーが私の上級生だった人の家の二階に引っ越すことになった。二間あってミィシャーと同棲する事になった。私も引っ越しの手伝いをした。手を滑らせて林檎の型をした陶器の蓋を割ってしまった。ミィシャーが大事にしていた物らしい。その日はミィシャーは不在だった。「ごめんなさい」がミィシャーに云えない。マァシャーは頬をふくらませて見せる。ミィシャーが怒ると云う。私は恐くなり、それきり行く事はなかった。
マァシャーの後にはタァニャーと云う女の人が移ってきた。この人は物静な優しい感じの人だった。子供がいると云って写真を見せてくれる。金髪の可愛い少女だった。
日本人世話会が結成されて,、いよいよ日本に引き揚げる日も近くなった。六月になって昼から駅前に集合することになった。前もって帯芯で一人づつのリュツクサックを母が作っていた。
各々が自分の着替えと食料を入れてかるう。鍋、釜も持たなくてはいけない。父は鰯の缶詰の楕円形を利用して水筒を幾つも作る。表面を二重に合わせて其の中に朝鮮紙幣の千円札を入れ半田鏝で付け合せる。比のお金は引き揚げてから、朝鮮人の帰国する人と仙崎で交換することが出来た。タァニャーは餞別に食パン二本を持って来てくれた。朝からばたばたと忙しく準備をしていた。ふと見るとマァシャーが戸口に立ってこちらを見ている。何となく寂しそうな顔だった、気付いたのに私は知らぬ顔をしてしまった。どうして素直に「永い間ありがとう」と云えなかったのだろう。今でも憶い出すと、悪いことをしたなと思う。幼な過ぎた自分が恥ずかしい。
昼から元山駅前に行き、各町内会別に並んで汽車に乗るのを待つ。集まった人は二百人以上の人だった。父母と兄、妹達がいるのに夕暮れが迫り始めると心細く、じわじわと不安と寂しさが胸を締め付けて悲しかった。これが生まれ故郷の見納めとなった。
五十歳前の父は団体世話役に、十八歳の兄もいっしょに警護にあたることになる。やがて貨物車に乗せられる。座るだけで身動きは出来ない。荷物のように押し込まれてしまった。ガタンと大きく揺れて汽車が止まる、父達責任者が降りてゆく、燃料代を出せとか次は女を出せとか難問が次々と出て来る。其の都度、皆からお金を集めては何とか進んで行った。
次の日は汽車を下りて皆ぞろぞろと歩かなければならない。京城に向かって連むのだ。前の連休が上まった。持ち物検査をすると云う。朝鮮人の保安隊が見て歩く。景色の入った写真や軍人の写った写真は皆、捨てるようにと指示がある。貴重品を取られる人もあったらしい。次は無蓋車に乗せられる。中央に荷物を積み上げて、ぐるっと人が回りに座る。汽車がカーブを曲がった時、荷物がごろごろと落ちた。あっと云う声、もう取りに戻ることも出来ない。たった一つの荷物をなくしてしまった人もいた。とうとう三十八度線を越える所まで来た。夜になるのを持って歩くことになる。急に真暗がりになり、雨がざあざあと降って来た。下の妹を中にして私と母が手をつないで引っ張って歩く。妹はリュックを背負って、なかば眠りながら歩いている。前の人に着いて歩くのが精一杯だった。暗くて何も見えないが、波の音が聞こえてくる。一方は山、一方は断崖絶壁になっているようだ。そんな暗がりを歩いていると遠くから「お父さん。お父さん。」と泣き叫ぶ声がする。命燃え尽きて日本を見ることもなく、亡くなったらしい。穴を掘って埋めることも出来ない。団体に遅れたら生きて帰ることは出来ないだろう。皆、必死でただ黙々と歩いて行く。ずぶ濡れになって夜明けも近い頃、朝鮮人の家にたどり着いて雨宿りすることが出来た。タオルで拭く間も惜しく皆へたへたと倒れこむように眠ってしまった。朝、外に出て見ると夕べ干したはずの手拭いはみな盗まれていた。今日は良い天気だ。皆んな三十八度線を無事越えた安堵感でいくらか元気が出て足どりも軽く歩いて行く。又、山道にさしかかる。
父の弟の家族も同じ元山に住んでいた。叔父さんは、現地召集で軍隊に入り母親と子供が七人いた。一番小さい子はまだ三歳だった。父には弟の家族を日本に無事連れて帰る責任があった。
牛に引かせた荷物や「チギ」と云う背負子を持って朝鮮人が、駄賃稼ぎにやって来た。荷車に子供と荷物を乗せる。父が「ちょっと待て」と云ってチギの荷物の上に幼児を一人づつ乗せた。朝鮮語の分かる父は後で「荷物を持ち逃げする相談をしていた。」と云った。どの位歩いたのだろうか、とうとう米軍の援助で建てられたテント避難民収容所までたどり着くことができた。
朝鮮では大勢の人が発疹チフスで亡くなった。蚤から媒介をされる。全員検便とDDTの洗礼を受ける。収容所では食事も配給されて、もう食べることの心配はなくなった。
施設には先に着いた人達が船に乗る順番をまだ大勢待っていた。一週間か十日か、記憶は定かではないが、やっと船に乗ることが出来た。小さな船で又、ぎゅうぎゅう詰めで釜山に着いた。
釜山に上陸して又、待機。三、四日待たされる。やっと日本に帰る引き揚船に乗ることが出来た。船では久しぶりに美味しい食事が出る。甲板に上がって見ると気持ち良い風が吹いている。子供を一人連れた若い婦人が早稲田の校歌を唄っている。廻りの者もそれに合わせていつしか合唱していた。船の中で演芸会が催される。股旅道中の踊りや歌が次々と披露される。賑やかで楽しい一時だった。生と死を乗り越えてきた人々の力強さが溢れていた。
日本に向かって連んでいた船が急に止まった。船の中が一時騒然となる。その頃は日本の海域には魚雷や爆弾が沢山投下されていた。誓くして浅瀬に乗り上げ、船の底が破損したと云うことが知らされた。船の底は二重構造になっているのでこのまま航海すると云うことで安心した。
「九州が見えて来た。」と云う人の声で甲板に上がる。「アア。日本にやっと帰りついた。」と恩ったら又、検便が有り三、四日船は止まったままだった。擬似コレラの疑いがあるので上陸は出来ないと云う。船は浦賀に回されることになった。浦賀でも収容所に入れられ、すぐには自由の身にはなれない。
やっと開放される日が来た。お金は一人千円づつしか交換して貰えなかった。汽車に乗り一中夜かかって防府駅に降り立ったときはもう夏だった。
父の弟の家族も全員無事に帰ることは出来たが、一年の内に叔母と従姉妹が栄養失調で亡くなった。幸い叔父と長兄は先に目本に帰っていた。誓く母の里にお世話になるが、日本も食料が無く、買出しに明け暮れる毎日だった。茄子一つでも農家を廻って、やっと分けてもらうことが出来た。
二人の妹は二学期から一学年下って小学校三年と六年生に転入した。私は女学校に転入することを諦め、技術を身に付けたいと思い洋裁学校に通うことにした。
何年かは、春が来ると栄養失調で体がだるく、頭がぼうっとした事を今も億い出す。
一九九九年二月
あとがき
子供と孫達に私の体験を知って貰いたくて、惚けないうちに書いておくことにしました。私も六十八歳。何にしろ五十三年前の記憶です。辛い思い出は思い出すのも嫌でした。今まではあまり人に話したこともありません。
人間は素晴らしい回復力を待った生物です。あなた達も困難や苦しいことに出会った時、苦難を乗り越え生きて来たおばあちゃんの事を思い出してください。きっと勇気が出るでしょう。
四人の孫達が明るく優しく頼もしい大人になってくれることを願っています。天国のおじいちゃんも、きっと同じ思いだと思います。
おばあちゃんより
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